2015年8月も終わろうとしております。
戦後70年の節目を迎えた今年の夏。
「戦争と平和」について触れる機会が
いつも以上に多い夏でもありました。
小学校の頃に祖母から聴かされた戦争体験の話―。
当時東京の調布周辺に住んでいた祖父母らは
東京大空襲を体験したとのことでした。
焼夷弾が降り注ぎ、建物はおろか人が焼かれている情景を
目の当たりにしながら防空壕に逃げ込み、
肩をひそめて米軍機が通り過ぎるのをじっと待っていた…
といった体験をゆっくりと静かに話してくれたのを記憶しています。
特に忘れられないのは、あと数分防空壕を出るのが遅かったら、
穴の中で焼かれていたという間一髪の体験だったそうです。
『たまたま運よく自分は生き残った―。
基樹とこうして話をしている。有難いことだよ』
祖父母はその後、茨城の常陸太田に疎開、
ゼロから必死に頑張って生計を立て、母が生まれます。
祖母があの時、ほんの少し異なる判断・行動をしていたら、
今の自分は存在していない―。
事実として、このような数多くの「奇跡」「想い」が
重なった延長に自分がいると捉えてみると、
「自分の存在そのものが本当に価値あるものであり、
かつ自分だけのものではない」と感じます。
心して生ききる―祖母の墓前に手を合わせながら
静かに決意する2015年の夏でした。
さて、今月のキーワードは、
自分の真の成長の為に意識したい言葉、
『 脚下照顧(きゃっかしょうこ) 』
を共有します。
『脚下照顧―禅の教え。自分の足元をよく見よという言葉。
「脚下」は足元の意。転じて、本来の自分、本当の自分自身の姿。
「照顧」は反省し、よく考える、また、注意してよく省みること。
他に向かって悟りを追求せず、
自分の本性をよく見つめよという戒めの言葉。
他に向かって理屈をいうまえに、
まず自分の足元を見て自分のことをよく反省する、
自分自身の立ち居振る舞い、普段の言動、
身近なことに気をつけよという示唆。
外部環境(人やモノ、情報)にばかり目を向けていると、
心は常に揺れ動く、ブレる。
やりがい、充実した毎日、自己の成長…
その実現に向けたヒントは、
「外」にはなく、 「自己の内面」にあるのだ。
時には外部環境から距離を置き、
本当の自分と向き合うことが必要だ。
自分の気持ち、心に素直にじっくりと耳を傾けてみよう』
ありのままの自分、自分の本当の気持ち、自己の内面と向き合うこと―。
真の成長や本当にやりたいコトを見つけるためには
必須事項だと分かってはいても、これがなかなか難しいです。
自分と本気で向き合うということは、
今の自分では気づいていないことや
自分の「嫌な部分」と対峙することでもあるので、
何となく「恐怖」を感じてしまうからです。
私はこれまで、「本当は一番何がやりたいの?」
「考えていることではなく、本当の気持ちを知りたい」
「もっと自分の本心を大切にした方がいい」といった
フィードバックを沢山の方から戴いてきました。
その度に自分と向き合おうと意識して
自己との対話を試みてはいるものの、
まだまだ「内面の私」と本気で向き合えていないと感じています。
日々の仕事に一所懸命に取り組む、
顧客の期待を超え続けられるように自分を磨く、
外部環境の変化を捉えて考え方や言動を柔軟に変えていく、
どれも大切なことだけれど、
内面の深い所にある心の声と向き合うことが一番大事。
改めてチャレンジしてみようと思います。
『私にとって人生とは、自分自身を知るための日々なのだ。
戦場で生き残り、天命によって生かされ、
事業という第二の戦場で現在も戦い続けている
私とはいったい何者なのか。
自分の内面を見つめて、常に己を知ろうとしている。
己は時には、対面する相手の言葉や表情にも表れる。
自分が行っている仕事に対する周囲の反応から己が出てくる場合もある。』
― 塚本幸一(日本・実業家、ワコール創業者)
『内面で向き合わなかった問題は、いずれ運命として出会うことになる。』
― カール・G・ユング(スイス・心理学者)
「脚下照顧」―
自分の本当の気持ち、自分の内面とじっくり向き合ったことがあるだろうか?
自分の立ち居振る舞いや思考を定期的に省みる機会を持っているだろうか?
慌ただしく過ぎゆく毎日、情報の洪水、
目まぐるしい変化、悩ましい問題の数々―。
気づかぬうちに「ただ流される、翻弄される」状態に陥ってはいないか。
当たり前に行っていること、疑いなく信じている考え方、
時間をかけて取り組んでいる業務、
それらは本当に、「心から大切にしたいこと」だろうか。
時には一人になって、己の内面と真剣に向き合ってみよう。
心の声を感じてみよう。
ワクワクする未来への扉の鍵は、
私たちの最も近いところにあるかもしれない。 |