2015年7月、梅雨も明け、猛暑日の続く毎日ですが、
皆さま元気にお過ごしでしょうか。
今月、日本では気温に同調するかのような「熱い議論(?)」を
目にすることが多かった気がします。
安保関連法案が衆院特別委で採決、
東芝の巨額不正会計事件、新国立競技場の建設費問題―
どちらかというとネガティブな事案の方が
(メディアの影響もあって)インパクトも強いため、記憶に残っています。
これらのテーマ、表面的な事実をシンプルに捉えると、
「何故このような顛末に至るのか不思議だ。
途中段階で何とかなったのでは?」と
感じた方も多かったのではないでしょうか。
様々な思惑が交差する中で、物事が想定を超えて複雑化。
いつの間にやら「目的と手段」が逆転し、
不思議な意思決定がまかり通るようになる。
結果は惨憺たる状態に、そして責任の所在は不明確、
だれも全体像を把握しきれないまま、事後対応に追われる状況に…。
「そもそも何の為に行っているのか」その目的を決して見失ってはいけない―。
「あるべき決断、行動とは何か」ではなく、
「誰の意図に沿うのか」を重視する属人思考の危険性―。
決して真新しい教訓ではないはずなのに、陥ってしまう罠、
人間の性(さが)なのかもしれません。
だからこそ、これらの教訓は、
何度でも自分に問いかけ続けるべきものなのだと感じました。
さて、今月のキーワードは、より良い意思決定の為に意識したい言葉、
『 心不在焉、視而不見(こころここにあらざれば、みれどもみえず) 』
を共有します。
『心不在焉、視而不見、聴而不聞、食而不知其味(大学 伝三章)からの引用。
―心焉(ここ)に在らざれば、視ども見えず、聴けども聞こえず、
食らえども其の味を知らず。
心がここにない上の空の状態では、
見てもその本質を捉えることはできず、
聞いても正しくその本意を聴くことはできず、
食べても本当の味を知ることはできない。
人間の知覚・認識は、客観的な観察(事実)をただ行うだけでなく、
心を集中して、五感を使って感じとろうとする精神があってこそ、
その「本質」を理解できる。
私たちは普段、どれだけ心を集中して視聴きし、毎日を過ごせているだろうか。
自分が今見えているものをもう一度心を向けて視直したい。
かけられる言葉に集中して傾聴し直したい。
本当に大切なものを見失ってしまう前に』
「石月さんは私の話、聴いているようで聴いていないことが多いですよね?」
「結論ありきで意見を言わされたり、考えさせられるなら、
いっそ命令してもらった方がいいです」
以前、コンサルティング会社でマネージャーをしていた時に
メンバーからこんな痛いフィードバックをもらいました。
聴いているふりをして実は次に発言すること(又は別のこと)を考えている、
上の空の状態は自分が思っている以上に態度に現れていました。
フィードバックをもらった時は恥ずかしく、必死に繕って対抗した挙句に、
最後になって謝るという、何とも情けなくて苦い記憶が残っています。
そもそも相手の考えや気持ちの深い部分を理解することは、
集中して見聴きしていても難しいもの。
それを片手間でやろうというのは、「なめた」対応としか言い様がありません。
そんな対応で本当の考えや気持ち、物事の本質を掴めないのは当然といえるでしょう。
今もちょっと気が緩むと、「漫然と見聞きしている状態」になってしまう自分ですが、
人と逢うとき、仕事をはじめるとき、何らかの決断をするとき、
できるかぎり心を向けて五感を使って相対することを心がけています。
後になって本当に大切なもの、重要なことを逃したと後悔しないために。
『凡眼には見えず、心眼を開け。好機は常に眼前にあり。』
―藤田 田(日本マクドナルド、日本トイザらス創業者)
『世間において常識とみなされていることに対して、
疑問を呈する勇気を忘れてはならない。
健全な猜疑心こそ、ものごとの裏に潜む本質を見極める近道である。』
―ロバート・ルービン(アメリカ・銀行家、財政家)
「心不在焉、視而不見」―
皆さんは、今日、何人の人と心を向けて
(五感を使って)真剣に向き合っただろうか?
何気なく見聞きしている普段の生活から
いつもとは違った何かを感じただろうか?
今、あなたがしている仕事、種々の選択は
「心から大切だ」「重要だ」と感じるものだろうか?
決して「本質」「ありたい姿」を見失うことのないように―。
人間は弱く、迷いがちで間違うことも多い生き物。
だからこそ、「今、ここ」に集中することを常に心がけたい。
物事の背景にある重要な何かを見極める、
己の「心眼」を大きく開きたい。
毎日をより主体的に生き、悔いなき素晴らしい人生にしていくために。 |